ABOUT US
私たち、児童養護施設「新天地育児院」は、
家庭での養育が困難で保護を必要としている子どもを預かり、
共に生活し、自立を支援し、退所後のサポートを行っています。
また、地域の育児に関する相談窓口を設け、
不登校やひきこもり等の相談を受け付けています。
岡山市の東、標高90mの小高い山・瑜伽山(ゆがさん)頂にあり、
豊かな自然に囲まれています。
OUR VALUE ~ 心がけていること ~
「丁寧な生活と連携」。これが私たちの養育方針です。
私たちは、子どもとの愛着関係を重んじ、家庭的で丁寧な生活を送ることを心がけています。
そのため創立当初より「小舎制」(小規模な生活単位)の「住み込み勤務」を採用し、
現在は、地域小規模施設が1個所、小規模グループケアホームが3個所あり、本館もユニットです。
また、子どもの生活を豊かにするため、ライフクリエイターと呼ばれる職員たちが活躍しています。お花を飾ったり、ランチョンマットを敷いたりと、生活空間にひと手間加えることで、子どもたちが「自分は大事にされている」と感じられるような環境をつくりたいと願っています。
特に、今は「もりもり食べる子はもりもり生きる」「一人一芸一趣味一特技」をキャッチフレーズとし、食環境の改善に取り組み、子ども全員が地域で習い事ができるよう心がけています。
また、私たちは連携を大切にしています。
子どもが入所する際には、関係機関とインテーク会議を行って情報を共有し、丁寧な受け入れを心がけています。また家庭復帰、里親委託、子どもの就職について、協議を重ね、関係機関との連携の中で段階的に物事が進むよう心がけています。
臨床心理士のチームは、ケアの職員と良い関係を築きながら、子どもたちの精神的ケアにあたっています。小児精神科医のカンファレンスを毎月行い、受診前後の資料を整え、医療との連携を心がけています。
OUR VISION ~ 目指していること ~
「地域の新天地育児院」。これが私たちの目標です。
様々な事情で子どもたちは地域から保護されて来ますが、私たちは、「丁寧な生活と連携」で子どもたちを養育し、最終的には再び地域につなげていく役割を担っています。
そのため、地域との関係を大切にし、地域に子どもたちの応援団が生まれ、地域内のあらゆる人間関係や結びつきの中に子どもたちの居場所がつくられていくことを願っています。地域の習い事に子どもたちを通わせているのは、それが理由です。
私たちは、地域の方々からあらゆる支援を受けます。同時に地域へ還元するため、地域の育児で悩んでいる方の支援を行い、子育て出張講演を行い、また里親さんを応援します。地域と共に生きる「地域の新天地育児院」、これが私たちの目指す新天地育児院です。
OUR HISTORY
~ 受け継いでいるもの ~
1887年、「児童福祉の父」と言われる石井十次は、キリスト教信仰に根差し、岡山孤児院を創設し、生涯孤児救済に身を捧げました。人々は、その命を懸けた姿に感動し共鳴しました。十次と同じ岡山教会のメンバーであった堀ミチもその一人でした。
ミチは1911年、十次に相談し、岡山孤児院の裏手にある瑜伽山(ゆがさん)で、十次が町を見下ろしてよく祈ったという土地に、
生活困窮者を助けるための家を建て、これを「愛の山 新天地」と名付けました。
ここは、食べ物に困っている人、体の不自由で仕事の無い人、病気の人、親や親族に見放された人、刑務所から出所した人、自殺未遂者、人生に行き詰まりを感じた若者たちが食べ物や宿を求めて集まり、野菜を育てて自炊しました。
当時ミチには、池田 愛という1歳で預けられた孫がいました。ミチはいつも愛に十次の話をし、神を信頼し困窮者に奉仕する生き方が、いかに素晴らしいかを語り聞かせました。
ある寒い朝、ボロの浴衣をまとい話す気力もない男性が訪れました。ミチは男性を風呂に入れ、着がえを与え、芋粥を食べさせ、おにぎりをもたせると、男性は何度もお礼を言って立ち去りました。まだ幼い愛が男性の行く末を心配すると、ミチは愛の手を取り、「世の中の食べられない人に私たちの昼食を上げてください」と祈りました。その日の昼食は、お茶と貧しい人々への祈りだけとなりました。
ミチは病人の見舞いに必ず愛を連れて行きました。愛がお見舞い品として古い人形を持って行こうとすると、ミチは「それでは喜ばれないよ」と、一番いいお人形を持たせました。愛にとれば、それは一晩抱いて寝てお別れをするほど大切な人形でしたが、涙をためてお礼を言った病人の目を、愛はいつまでも忘れられませんでした。そのように、愛は祖母の慎ましく慈しみ深い生き方に多大な影響を受けて育ちました。
ミチは病床で愛に対し、「親に育ててもらえない赤ちゃんを育てなさい」と言い残し、1946年に召天しました。当時は岡山も爆撃の
爪痕生々しく、捨児や浮浪児がたくさんいました。何の蓄えもありませんでしたが、愛は決意を固め、博愛会の更井良夫医師に相談し、1950年、自宅を開放して、女学生仲間と共に乳児預かり所を開設しました。その後、1951年に養護施設を併設し、1955年に社会福祉法人となりました。
設備は乏しく財政は苦しみの連続でしたが、愛はいつもにこやかに笑顔を絶やしませんでした。自分はいつも赤茶けた黒のスーツ、破れた靴、いつも同じ紺のブラウスを着ているので、子どもが「どうしてあの服ばかり着るの」と聞くと、ユーモアを交えて「夜に洗うと朝には乾いているからよ」と答えたそうです。そのブラウスも職員が端切れを縫い合わせたものでした。
愛は信仰に固く立ち、貧困の中でも希望をもち、子どもへの愛一筋に生きました。その姿は多くの人の心を揺さぶり、多くの若い保母たちが後に従い、多くのサポートを受けながら、数百人の子どもたちを育てることができました。
愛の働きと理念は評価され、1977年に厚生大臣賞/三木記念賞/山陽新聞社賞、1978年に藍綬褒章/中国新聞社賞/中国社会事業功労賞、1988年にソロプチミスト婦人ボランティア賞などを受賞しました。しかし受賞の際、愛は「私は賞を受けるようなことは何もしていません。ただ一人一人の子どもを可愛いと思い育てただけです。それでも、世の中のお母さんの万分の一も愛していないような申し訳ない気持ちです。私の頼りない所を皆さんが助けて下さりただ感謝です」と述べ、多くの支援者に感謝し、謙虚にこれを受け止めました。
石井十次から渡された種を、堀ミチがまき、池田愛が結実させたもの、それが新天地育児院です。